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2013年3月3日 - 2013年3月9日

2013年3月 4日 (月)

青森に山の絵を見にゆく

 山を描いた水彩画展が青森市内であるというので出かけた。
 開催しているのはモンベル。新青森駅の近くのマエダガーラモール店に出店
していた。

 店の奥に20点ほどの絵が架けられていた。
 ざっと見渡した印象はきれいな絵という一言。彩色の濃淡がどの絵も安定して
いて、さわやかな気分になる。

 国外の山もあるが、白馬岳、槍ヶ岳などの山岳や山小屋。山小屋や周囲の樹
木が手前の水面に影を映している。幹も枝も白く抜いて描かれている。
 
 
 

 素描は鉛筆だろうか、薄めの細い線で輪郭や陰影を描いている。繊細だ。色
彩は淡く塗られて濁りがない。ある絵では、岩の壁面全体が陰になっているが、
その上にわずかそこにだけ夕陽が当たるスポットがあった。草付きは明るい緑、
オオシラビソだろうか遠くの針葉樹は暗く幽かな緑。明るい面は紙面を塗らず白
く抜いている。

 ナナカマドとウスユキソウの絵もあった。モチーフの周辺は省略している。その
センスが、いい。、何より空がいい。薄めの青とピンクを広げている。出かけた山
で見たい空、その下を歩いていたい空が描かれていた。炎天ではなく歩いて爽
快な空。

 画家は成瀬洋平という30か31歳の岐阜の人。

2013年3月 3日 (日)

「藤田嗣治 『異邦人』の生涯」を読む

近藤史人著 講談社 2002年刊

 藤田の絵がパリで認められるようになったのは1910年代後半から。フラン
ス印象派が衰退してきたころだという。それでも、名前の知られた芸術家たち
がパリにいた。

 たとえばモディリアニとは同じアパートだったというし、ピカソ、晩年のルノア
ール、写真家マン・レイ、ヘミングウェイ、音楽家エリック・サティなどもいた。
シュールレアリズム宣言があった。ドイツではカフカが小説を書いていた。

 パリで藤田と会った日本人では詩人金子光晴、文学者島崎藤村などがいた。
第二次大戦に画家として従軍する前に上海で菊池寛と会っている。

 パリでの社交界での奇行や衣装、髪型などが日本に伝わっていくと、奇をて
らっているとして絵画の評価も不当に低く扱われた。水と油のようで、終生、日
本画壇との軋轢に苦しんだようだ。

 本によると、日本人であることをわかってもらおうとしてきたようだ。戦争画を
描いたのも、その思いの強さゆえだったと。

 陸軍からの要請にこたえて戦争画を描いたことで戦争責任を問われるが、
藤田一人がその責任をかぶった形になった。渡米しても渡仏しても戦争画を
描いた藤田に周囲は冷たく、パリに戻ってきても、日本画壇からの中傷が追い
かけてきた。

 1955年((昭和30年)69歳でフランスに帰化し、日本国籍を抹消し、4年後
にカトリックに改宗、レオナルド・フジタとになった。これで完全に日本との関係
が切れた。1968年(昭和43年)、82歳で永眠。

 秋田市の平野美術館にある「秋田の行事」は1937年(昭和12年)の作品
だが、当時、この大壁画を展示する美術館として平野政吉が「藤田美術館」の
建設を構想していた。美術館に自分の名が冠されるこの話に藤田は大いに喜
んだ。しかし、戦後20年以上経た1966年(昭和45年)に着工され、翌年に完
成したこの建物は、「平野政吉美術館」と名づけられた。


 藤田はこれに怒ったが、平野側にも言い分はあり、双方のすれ違いは後味
が悪いまま解決されなかったらしい。

 ところで、平野美術館には大分行っていないが、照明が暗かったという記憶
がある。館内はそんなに広くないので歩くのは苦痛ではないが、絵をよく見よ
うとして目を凝らさなければならなかった。今は少し明るくなっているだろうか。
今年、新しい美術館に移転する話になっているようで、それはそれで楽しみだ
が。

 

 

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