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2013年6月23日 - 2013年6月29日

2013年6月26日 (水)

モームの「月と六ペンス」を読む(2)

  第50章冒頭部分・・・

   生まれる場所を間違える人もいる(略)。偶然によってある土地に生まれ、
 そこで暮らすことになるのだが、自分の知らぬ本来住むべき場所が他にある
 と信じ、そこへの憧れの気持ちをずっと胸に秘めて暮らす。生まれた土地では
 よそ者なのだ。子供の頃から知っている樹木の多い小道も、あるいは、よく遊
 んだ人通りの多い街路も、彼らには人生の通過点に数ぎない。親類縁者の間
 でよそ者として暮らし、自分の知る唯一の土地になじめぬまま一生を終えるこ
 ともある。このようなよそ者意識のために、自分が本来所属するはずの場所を
 探し求めて、世界中をあちらこちらと漂泊の旅に者もいるのかもしれない。ひ
 ょっとすると旅人は、根深い先祖帰りの血のせいで、自分遠い先祖が人類の
 出現した大昔に後にした土地へと戻ろうとするのかもしれない。そして幸運に
 も、こここそ自分本来の居場所だと、なぜだかわからぬままに本能的に感じる
 場所にたどり着くことも、ときにはあろう。こここそ憧れていた故郷だと思い、そ
 こに落ち着く。その環境も隣人も誕生以来慣れ親しんできたものであるかのよ
 うに、実際には見たこともなかった環境の中で、それまであったこともない隣
 人に溶け込んで暮らし始める。ここで初めて休息を見出すのだ。

 語り手は画家の中に「生まれた場所を間違えた人」を見ているようだ。そして、
漂泊の末にたどり着いたタヒチ島の山の奥が画家の本来の居場所で、そこで初
めて休息を見出した、と。

 上の引用部分にさしかかったとき、私には文字が大きく映り、内側の針が振れ
るのを感じた。なつかしい思いだ。

モームの「月と六ペンス」を読む(1)

 以前からサマセット・モームの本を読んでみたいと思っていた。書店の棚にあっ
たので表題の文庫本を買った。1919年に書かれたもので、昔は中野好夫訳が
あった(1940年版)ことを覚えているが、今出ているのは2005年版で行方昭
夫(なめかたあきお)訳による。

 タヒチ島の女たちを描いたポール・ゴーギャンの生き方を参考にしているとい
う。退屈な読みはじめだが我慢して読み進めていく・・・。

 
 小説の画家は、絵を描くその行為に無上の価値をおき、絵の金銭的価値には
一顧もせず、生活苦のなかで絵具やキャンバスがあれば食糧などなくても平気
で、暴力的かつ野卑で攻撃的な言動をし、他者からの善意を平気で踏みにじり、
それどころか蔑みつつ絵を描いていく。後にイギリスからフランスへ渡り、やが
てタヒチで病死する。

 かなり強烈な個性だ。かつて写真で見たことのあるゴーギャンの絵には、世
界との親和性をもち、落ち着いた印象をもったものだった。色彩だって刺激的で
はない。しかし、この小説ではモームが作り上げた部分もあると思ううが、そうし
た印象を覆すような人物として描かれている。

 
 一方、画家の描く絵に高い才能を見出し、限りない善意で世話をし続ける人物
も登場する。小説の語り手は、この人物の善意を理解するが、画家に踏まれて
も蹴られても妻を寝取られてからも、愛情を注ぎ、自分の住まいさえも画家と自
分を裏切った妻のために提供するというこの人物のあまりの滑稽さや矜持のな
さに呆れたりする。

 
 こうした二人の人物像を、いまの日本の社会に見出そうとしてもあまりいないの
ではないか。大体同じような人生の顔を持ち、同じような感覚で選択し、似たよう
なモラルの中で安心感を得たり、過敏になったりしている、そのような社会にあっ
て上のような人物は希有なものだと思う。

 個性のあまりの強さが凶悪残忍な犯罪に走ってしまう例が時にあったりするが、
それを個性の濃淡で仕分けするのもまた違うような気がする。

 西欧やロシアの小説を、昔、ほんのわずかだが読んで、登場人物に現実味が
薄いと感じることが多々あった。表現の誇張によるものかもしれないし、浅薄な
読みのせいもあるだろうけれど、あちらの世界と日本とでは人間の現れ方が相
当にズレていると感じたことを思い出した。

2013年6月23日 (日)

陸上選手の獲得した言葉

 陸上競技のハードル競技の選手をハードラーというのだそうだ。元ハードラ
ーの為末大が何冊かの本を出していて、そのなかの「走りながら考える」(ダ
イヤモンド社)を読んでいる。
 

 競技者生活を人生にたとえれば、わずか二十数年の命。そのなかに停滞も
苦悩もあって、それに打ち克とうとするために彼が行ってきたさまざまな観察
や考察が紹介されている。

 競技者の心構えを、精神論に傾かずに説いている。自分を冷徹に見つめて、
集中と脱力を意識的に行うような身体面や精神面の自己コントロールを追及し
てきた。競技者(アスリート)が、競技やトレーニング以外にもこのような努力を
傾けるものなのかと、認識を新たにした。

 以下いくつか目に留まった部分を例示すると・・・

 ・残念ながらほとんどの人生は負けで終わる。負けと幸福感は別である。

 ・全体のバランスで見始めると、欠点が欠点だけで存在しているのではなく、
 長所とセットになっていることがほとんどだった。欠点には「存在する理由」が
 あったのだ。

 ・「きれいごと」はうさんくさい。でも「きれいごと」がないまま生きていけば、結
 局何のための人生かわからなくなる。(略)あきらめないこと、ベストを尽くすこ
 と、なんでもいい、そして自分の中に残ったたった一つの「きれいごと」が人
 生の価値観を作る。

 25年の競技人生のなかから、彼は例えば上のような言葉を獲得した。ほか
にも新鮮に映った言葉があるが、別の機会に書き留めよう。

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