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2014年1月5日 - 2014年1月11日

2014年1月 8日 (水)

鎌倉観光一泊二日(2)

 鶴岡八幡宮の次は建長寺へ。北条時頼が創建したが火災などで多くが失わ
れ、大半は江戸時代に再建された。壮大な寺院だ。お釈迦様が全身痩躯、あ
ばら骨の見えるほどの苦行をしている像があった。この敷地の一角から天園
ハイキングコース(鎌倉アルプス)が始まっていて、ハイキング姿の二人組が
出発していた。晴天下さぞ気持ちよいだろう。山門脇の休憩室にも登山姿の
人たちがいた。

 再び鎌倉駅へ戻る。途中、道元禅師の「只管打座」の石碑を見つけた。鎌倉
駅から江ノ島電鉄で長谷駅へ。晴れてはいるが寒い。冬コートに付属のインナ
ーを付け、マフラーで首から入る風を防いで歩くとちょうどよい。これでは雪が
ないだけで他は秋田と同じだ。

 長谷寺では十一面観音菩薩様を拝んだ。ここでも様々なお札やお守りが売ら
れていたがパス。急に信心を装っても神仏にはお見通しだろう。それに先日、
地元の神社でお守りなど買ったばかりだし。境内の一角で60代くらいの男性
が地面に座って一心に南無阿弥陀仏と唱えていた。何がそうさせているのだろ
う。こういう人こそ信心深いというのかもしれない。境内の端に立つと眼下のび
っしりと建て込んだ街並みのすぐ向こうに相模湾が広がっていた。

Memo0052


 再び長谷通りを歩いて大仏様の前に来た。長年風雨にさらされてできたシ
ミが頬のあたりに見える。瞑目する表情、目や唇を見ているうちに親しみが
感じられてくる。渦巻き状の髪の形(螺髪)が具志堅用高を思わせて・・・。台
座より上の青銅の仏身の高さ11メートル余り、顔の長さ2.4メートルだ。

Memo0056


 源頼朝の何とかいう侍女が発意し、何とかいう僧侶が零細な民間人から資
金を集めて造った。国家や王侯が資金提供したものではないと立札に書いて
ある。当初は木造だったが、大風で倒れたため、再び資金を集めて1252年
に現在の青銅の像を造った。仏殿を造ったが、海潮に流失してからは復旧し
なかった。

 ここまで波が押し寄せてきた。津波のようなものだったろうか。この時代、地
震も多かった。幕府が滅びるまでの150年間で鎌倉大地震が三度、関東大
地震が一度あった。それらとは別に蒙古軍が二度、九州博多に襲来し、大風
の助けもあって撃退したのもこの時代だった。

 帰路は由比ヶ浜から電車に乗ることにして駅まで歩いた。シラス干しの料理
が盛んらしく、シラス丼とシラス何々というのが通りに面した飲食店のショーケ
ースに並んでいた。昨晩は小町通の中華料理店でシラス入りの焼きそばとシ
ラス入り餃子を食べた。それにしても鎌倉何々というを何度も目にした。鎌倉
ビール、鎌倉彫、鎌倉ハム・・・。それに小さな構え店がずらりと並ぶ小町通り
を歩くと、鎌倉は確かに観光地だった。

 北鎌倉では椿があちこちに咲き、ゆずの実も黄色く実っていた。この季節、
秋田で緑といえば針葉樹しか見当たらず、茶色く焼けたような風景が広がっ
ているが、鎌倉では何の木だろうか、垣根の緑が敷地と歩道を区切り、山々
を緑に保っている。この風光の違いにため息をつきながら、鎌倉を後にした
のだった。

鎌倉観光一泊二日(1)

 正月休みだ、どこか旅行に行こうかというと、カミさんが一泊二日程度ならと
いうので、鎌倉ということになった。雪もないし手ごろでないか、と。それで、中
学校の修学旅行以来に、いざ鎌倉へ・・・。

 源頼朝が幕府を開いた地であり、大仏もある。そんな程度しか知らないので、
「鎌倉歴史散歩」(奥宮敬之 新人物往来社)でにわか勉強をした。

 大昔は海底にあったが、その後隆起した土地だったらしい。鎌倉幕府が開か
れたころも、鶴岡八幡宮からほど近いところには、まだ湿地が残っていた。三方
が高さ百メートル前後の山地で、南側だけが海に面していて、まさに天然要害
の地であった。鎌倉七口というのがあって、鎌倉への出入りを七方向からと定
め、その陸路の途中に切通しを作った。しかも、その切通しにはわざと通行容
易でないような仕掛けもした軍事目的の道だった。

 頼朝が1180年にこの地に入ってから1333年の鎌倉幕府滅亡まで、150年
余り、日本の政治の中心地であった。

 都市づくりは京都を模したという。鶴岡八幡宮から南南西に伸びる若宮大路
は、京都の朱雀大路を模したほか、十王岩から若宮大路を結ぶ線は、京の船
岡山から朱雀大路を結ぶ線に当たる。

 では、鎌倉幕府はどこにあったのか。帰宅後調べると鶴岡八幡宮の東に大
蔵幕府跡という史跡がある。地図についている。清泉小学校があり、法華堂跡
(頼朝の墓)のある一帯が幕府のあったところのようだ。

 奥羽の藤原氏は逃れてきた義経をかくまったが、頼朝からの指示に逆らえず
泰衡が殺した。それでも頼朝の攻撃は止まずに、ついに平定されてしまう。ん
ー、西暦800年前後に坂上田村麻呂率いる朝廷側が奥羽のアイヌを攻め、平
定したように、この時代でも東北は中央権力にやられてしまうのだな。

 鶴岡八幡宮は単に源氏の氏神を祀ったのみならず、多様な宗派に帰依して
いた東国武士の結集した鎌倉幕府の氏神だった。その八幡宮は五日日曜日、
大勢の参拝客でごった返し、三の鳥居の先の表参道はかなりの渋滞で、先へ
進めない。で、参拝は翌日に延期した。

Memo0049


 延期したその判断はよかった。翌日は月曜で大方の職場では仕事始めの日。
参拝客もぐっと減っていた。さっそく、石段下でおみくじをひいた。ところが、な
に?「大凶」ではないか。はるばる秋田から東京に出て、横須賀線に乗り換え
て鎌倉に着き、一泊してからようやくたどり着いた果ての神の御宣託がこの結
果だ。がっくりきた。それにしても大凶って札、本当にあるんダ。

 ならばと、気を持ち直し、石段を上がって、別の巫女から厄除開運のお守り
を買い、二回目に挑戦。そこでは木箱から引いたおみくじ棒に番号がついてい
て、その番号を巫女に告げると、番号の箱からおみくじを渡してくれるのだった。
結果は小吉と出た。これでいい、帳消しだ。ところで、本宮では希望者が祈祷
を受けていたが、その隅に置かれた二つの酒の一斗樽が目に入った。一つは
「新政」だった。

 

 
 

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