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2014年1月19日 - 2014年1月25日

2014年1月25日 (土)

水上勉の「蓑笠の人」、「良寛」を読む(2)

 「蓑笠の人」は単行本で出る前に「別冊文芸春秋」に発表された。それを読
んだ人から、良寛を批判している、高僧として崇めていればいいものを、足元
をえぐるとは何事かとの批評があったと、著者は全集のあとがきに書いてい
る。批判するつもりはなかった、良寛和尚を尊敬する心は変わらない、禅僧が
民衆の中に降り立てばこういう姿になるしかない、と著者はそのなかで答えて
いる。

 また、同じあとがきに、著者は「餓死、首つり、村ばなれの続出する地獄に
は、雀にくれてやる米なんかありはしない。この時代に、良寛和尚は、破れ庵
に起居して飢え死にもせずに何を考えていたのか。そこのところがこの小説
の意図された理由である」とも書いている。

 このあたり、とても興味を覚える。良寛への礼賛、敬慕の声が多い中で書か
れたこの小説に批判が寄せられ、それに対して著者が意図を説明して反応し
たわけだから。さらに、その後どのような心境の変化があったのだろうか。水
上は九年後に再び良寛をテーマにした「良寛」を発表する。

★「良寛」

 
 「蓑笠の人」には何とはなしに良寛とつかず離れずのような視線、距離を感
じたものだが、あとがきにそう書いた「良寛」では、この孤独な僧に添い、その
内部に入っていこうとしている。

 22歳の時に名主見習を途中で放棄し、弟さえまだ18歳のときに、なぜ急に
出家をしようとしたのか。

 備中玉島の円通寺から国仙和尚が来たことを千載一遇の機会とばかりに
和尚に随いて備中に行く。円通寺での良寛はどのような修行をし、何を考え
ていたのか。

 国仙和尚亡き後、中国、四国などをなぜ乞食行脚したのか。

 生家が没落しそうになり、弟も有効な手立てをうてないまま酒色や俳諧など
にうつつを抜かしているなか、漂泊の足を越後に向けて帰郷しようとしたのは
なぜか・・・。

 
 良寛の足跡や内面を記したものがほとんど残っていない中で、様々な研究
がなされていて、上の疑問などの謎ときを、著者は先行する研究書を参考に
もしている。それらを踏まえたり、時に別の見方を述べたりしながら良寛の人
生像を明らかにしようとする。「蓑嵩の人」のようなどこか冷めた感じはなく、
全力で当たっているような熱を感じる。

 また、たとえば、円通寺時代の良寛について、修行ぶりを示す資料が全くな
く、師匠や兄弟子をへこますような逸話もないことや、後に歌われた漢詩の訳
などから、「二十人の競争弟子の中で・・・隊伍から落ちた位置に安息感があ
り、ひそかにそれで満足していたけはいが濃い」とし、良寛を修行の鬼だった
とする先輩研究家と違って、「修行成績はよくなくて、あるいは仲間には愚鈍
に見えたろう日常を嗅ぐのである」としている部分などに、人間洞察の深さを
感じたりする。
 
 

 著者自身若い時分に臨済宗の寺にいたため、寺の運営や仏教思想に詳し
いこともあって、良寛がいたころの仏教界の様子や寺のありようなども、良寛
が人生の方向を決める際の判断になっただろう。たとえば、幕藩政治下で、
禅宗寺院が民衆支配のお先棒を担ぐような、人別帳の作成やその際の人身
差別を行っていたことにもふれている。それへの憤りから寺院をさっさと離れ、
異端を行く幾人かの僧の存在を紹介し、良寛もそれに連なるの一人であると
いった見方をしている。 
 

 著者自らの人生経験や人間洞察、仏教界やその仏典の教義への深い理
解(私にはとてもついてゆけるようなものではなかったが)、地域経済や幕藩
体制の動きなどを横目で踏まえながら、良寛の内面に迫ってゆく推理の力は、
やはり並のものではなく大したものだった。

2014年1月23日 (木)

登り初め

 今年の冬は厳しい、雪も去年ほどではないにしても多く、寒い。しかし、負
けてもおれないと、先日、ちょうど朝から晴れやかな日が空気を明るくしてい
るので、前岳手前の女人堂跡へ出かけることにして、甥を誘った。

 金山滝入口は除雪された雪が堆積し、ただ登山者のためか駐車スペースが
空けられている。7台駐車していてそれ以上とめると車道を狭くしてしまう。こ
こは諦めてもっと上へ。ザ・ブーン駐車場に車を置いた。

 柔らかな雪の中に踏み跡がついて歩きやすい。50分で馬返し着。平日でス
キー客が少ないせいか、最上部へのリフトは運転を休止している。さてここか
らの登りには難渋させられた。これまでの経験では、冬でも早立ちした先行者
が多く、路は踏み固められているのに、今日は登る人が少ないようだ。雪は柔
らかく、足を踏み出したときに問題なく次のステップに移れたかと思うと、次の
足は簡単に潜ってしまったりする。その繰り返しだ。

 こちらはスキーのストック(30年来スキーをしたことはなく、もっぱらこの時期
の登山補助に使っている)2本を持参したが、その傘のあるストックもズルズル
と沈み、手元まで埋まってしまったりする。甥の方は夏山用のストック1本きり
なのでかなり難儀している。ホオだいぶ離れてしまったと思い、スキーストック
1本を下の甥の方に放り投げてやる。彼が自分のと2本を使って、一息入れて
いる私のところまでようやく追いつくと、この自分勝手な叔父は彼に休ませる
間も与えず、また登り始める。甥は少し休ませてよと言いたげだ。

 前岳山体への登りの手前でお昼になったので昼食。予定より3、40分くらい
遅れている。ちょうど下山してきた人に聞くと、この上はさほど潜らないだろう
という。彼の足にはスノーシューが装着されている。(俺もカンジキ持ってくる
んだったよ)

 ヤセ尾根では、木々の間から吹き抜ける風に飛ばされて雪が積もらないとこ
ろもあれば、吹き溜まりになったとことろもあり、積雪深はまちまちだ。

 女人堂跡着。鳥居の陰の広場にあるお堂は雪で姿が見えない。誰かがアイ
ゼン用具を置き忘れたのだろう。別の人がそれを見つけて鳥居に結んだよう
だ。

Memo0062

 下山時、枯葉を落とさずにびっしり残しているブナを見た。雷にやられたの
か、途中から折れて、その先でほかの木にもたれかかっている。まだ死んで
はいない。いつ倒れたのだろう。青葉の頃からすでにこうだったのだろうか。
途中で折れるとブナは真冬でも葉を残すものなのか。

Memo0066

 先ほど登りで難儀した斜面で、雪のふかふかした中を下ってゆこうとしたが、
かなりの深さで進めなくなり、路に戻って少し下に来てから今度は雪に腰を下
ろし、尻ソリを試みた。両手で漕いだりしたが、さすがに股の下に雪がたまる
ばかりで、漕いだ分しか進まなかったが、久しぶりに子供のころの雪遊びの
気分を味わった。

 今度はカンジキ持参だな。

2014年1月20日 (月)

水上勉の「蓑笠の人」、「良寛」を読む(1)

 ともに水上勉が良寛について書いた本。「蓑笠の人」は昭和49年「別冊文
芸春秋」に発表され、昭和50年7月に単行本となった。昭和52年に水上勉
全集第13巻が出され、それを読んだ。「良寛」は昭和58年「中央公論」に発
表され、単行本となったのは昭和59年4月で、私が読んだのは昭和61年
に発行された中公文庫だった。

 良寛は、宝暦8年(1758年)越後出雲崎に出生。18歳の時に出家し、備
中玉島の円通寺で国仙和尚の下、厳しい修行を続けた。国仙和尚没後、一
人漂泊、乞食の旅に出、38歳の時に帰郷。以後、一人国上山の庵(五合
庵)などに暮して、托鉢に出ては子供らと遊び、漢詩や和歌などを詠み、74
歳で示寂した・・・などとされている。

 しかし、良寛の人生については、その出自や他界時のことしか根拠がはっ
きりしないという。それ以外は、遺された詩歌や良寛と親交のあった人たち
とやりとりした書き物などから推定して、その足跡などをつなげ、隙間を埋め
ながら、研究家が人生像をつくってきたもののようだ。

 最近、中野孝次の「風の良寛」を読んだ。現代人はモノの過剰に溺れなが
ら幸福感が持てないでいる。つねに何事かを求め、欲望実現のために働い
ている。このような有為の価値ばかりが横行する時代に、良寛のような無為
の奥深い自由を味わい続けた生き方に惹かれるのだ。良寛は現代の価値
観と正反対のところにいて、そのことによってわれわれの知らなかった可能
性を提示している。そう述べていた。

 また、高橋治の「良寛さん」は良寛の足跡や詩歌を通じて良寛像を明らか
にしつつ、出家後に残した両親や弟妹、その子などの消息にも筆を進めて
いる。

 
★「蓑笠の人」」(さりゅうのひと)

 
 しかし、水上勉のこの小説は、それとは大分視点が異なっている。「宝暦、
明和、安永、天明の時代は何年も飢饉は続いていたし、農民騒動は諸所
に起きていた。(略)凶作のつづいた天明の初め頃の百姓は、米はおろか
芋も食えなかった記録がある。その天明時代も、じつは良寛の二十歳から
三十歳までの年まわりである」。小説をこのように始めて、著者は、当時の
農民町民のおかれた状況を明らかにしつつ、それとのかかわりがどのよう
なものであったかを探る中で良寛の人となりを洗い出そうとしている。

 ただでさえ貧窮していた農民から乞食して食い物を得、懸命に働く農民を
尻目に子供と毬をついて遊び、庵では和歌や漢詩を歌い、親しい文化人か
ら様々な農産物、海産物、果物、菓子類、薬や酒などの贈り物をもらって暮
らしている、そのような生き方を良寛さん自身はどう考えていたのか、と著
者は問うている。

 小説は、郷土人物誌「宝鑑」のなかに見つけたという弥三郎を登場させる。
良寛出生の地出雲崎に近いところで良寛と同じ年に生まれた青年だ。信仰
心が篤く、極貧にあってもそれなりに辛抱し工夫して暮らしてきた。出家しよ
うとしたが、良寛と違って身分上許されず、困窮生活の末、一揆に加担し、
それを咎められて罪人として佐渡へ送られた。

 罪人たちの労働は苛烈極まりなく、最悪の環境と疲労で三、四年も続けれ
ば大概は死んでいく。弥三郎の労働は鉱山の最奥部の採掘現場で、染み出
てくる水を外へ排出するというものだった。地獄のような日々にあっても如来
様を信じ、他の罪人たちが死んでいく中でも、彼は二十年勤め上げ、晴れて
刑期を終えて郷里に戻ると、妻はすでに他家に嫁ぎ、子供の行方は分から
なかった。

 著者は、弥三郎の人生や人となりを良寛のそれと時系列的に対比させて
描くことによって、良寛の生き方がどう見えるか、「この視線があってこそ、
行乞清貧の和尚の足元がしっかりとあぶりだせるかもしれなかった」とあと
がきに書いている。平たくいえば、皆が言っているほどこの和尚さんは偉い
のか、と言いたげだ。

 しかし、あとがきに弥三郎というのが実は想像上の人物だと書いてあった。
おいおい、そんなのありか。すると引用した郷土人物誌「宝鑑」というのも作
り事か。壮絶な人生を送り、両目を患いいながら亡き父母の眠る墓地の百
日紅に立ったままもたれて命果てた弥三郎という者がいたという「宝鑑」の
感動的な記事が作り物だったとは。ナンダコレハ。

 「高僧伝はえてして、その行実の高邁宣揚に筆が勇みすぎる」からといって、
著者のもつ疑問に説得力を付与させたいからといって、人生に絶望してもお
かしくないような境涯の人間が仏の道に生きようとする姿を創り上げて、一般
に流布している「良寛」像に対比させて、「良寛」像の足元に冷たい水をあび
せかける、そんなやり方はちょっと違うのではないか。

 それはそれとして、出家後、備中玉島の円通寺での修業を経、諸国行脚の
後に越後に戻ってきた良寛が、飢饉が続き過酷な生活を強いられる農民た
ちの姿を見なかったはずはないだろう、そこをどう見ていたのだろうという著
者の思いは説得力をもつ。

 良寛は漢詩や和歌などは遺しているが、自身の来歴、家族のこと、円通寺
での修行の様子などのほか、越後に戻ってからの世の中の、自分が托鉢に
出かけた先の農村の様子など、自身が見聞したことを記録として一切書き残
していないからこその謎だという。

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