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2014年1月26日 - 2014年2月1日

2014年2月 1日 (土)

スーパーで

 カミさんからもらった紙のメモどおりに、納豆、豆腐、玉ねぎ、魚、鶏ひき肉、
牛乳、せんべい、ホウレンソウ、セリを買った。このスーパーは、さほど売り
場面積は広くはないが、食品を中心に品揃えは充実していると思う。それに
レジ前に並んでも駅前のスーパーより待たされることが少ない。回転率がい
いというのか。といっても去年途中から店名が変わったということは、ここも
経営は大変なのかもしれない。

 カミさんが言っていたように、店の奥にはお惣菜が多く並ぶようになった。
お惣菜コーナーのすぐ脇のカーテンで仕切った陰が調理場になっている。老
人世帯や一人暮らし老人が多くなったためだろう、同じ品のパックでも大小が
あり、買いやすい感じだ。結構売れているように見える。

 ただ駐車場の使い勝手が今少しだ。どこの区画が空いているのか乗り入
れてみないと分かりにくい感じがする。ここが満車なので裏手の駐車場に回
ってみることもあり、結局そこも満車のため別のスーパーに行ったこともある。
しかしだからといって、食品目当ての買い物なら駅前スーパーよりこっちに来
ることが多い。これもカミさんの、品はこっちがいい、という感想を鵜呑みにし
ているためだ。

 これも自分が車という移動手段を持っているから店を選べるためで、そうで
なければ家に近い駅前スーパーにしか行かないだろう。

 
 2011年3月11日、東日本大震災のあった午後、職場では電気も来ず、電
話もできず、パソコンも使えなくなって仕事にならないからと、帰宅を許可され
た。歩いて吹雪まじりの大橋を渡り、信号の点灯しない交差点を通り、西中前
を通って、このスーパー前にさしかかると、店頭に人が集まっているので近づ
くと、パンや野菜など商品が並べられ、売られていたのだった。で自分も今日
明日のためにと買って帰ったことがある。そのときはこうしたスーパーをありが
たいと思った。

 しかし自分で歩いてこれない人たちはどうやって食糧など必需品の確保を
していたのだろう。親戚などからの助けを受けた人もいただろうが、身寄りの
ない人もいたのではないか。結局やりくりはしたのだろうけれど。

 あれから間もなく満3年。自宅近辺には高齢者用集合住宅が2か所にでき
た。もう一か所建築中だったがもう完成しただろうか。そこの入居者は食品や
日用品の買物はどうしているのだろう。自分で歩ければ問題はないが、買い
物弱者という言葉があるが、誰かに頼らなければならない人はきつい。スー
パーが注文を受ければ配達するというサービスをしているところもあると聞く。
当然来店して買う場合よりは高くなる。利用者は多いのだろうか。

2014年1月29日 (水)

水上勉の「良寛を歩く」を読む

 昨年秋、信州で登山をした帰りに燕三条に泊まり、翌朝国上山を歩いた。舗
装路の終着は広い駐車場で売店や小さな資料館があった。月曜日だったた
めあいにく閉じていた。その先国上寺はすぐだった。居合わせた寺の人に教
えられるままに境内の端についた通路を下り、やがてそれは山道になったが、
下ると五合庵があった。

 ここで起居し、詩歌を読み、ここから乞食に出ていったのだ。便所はどうして
いたのだろう。冬の積雪はかなりのものだったのではないか。暖房といっても
炭に頼るしかなかったろうし、布団も薄っぺらなものしかなかっただろう。村へ
下りてゆくのに深い雪を掻いて行ったのだろうか、などとここに住む難儀さが
偲ばれた。

 良寛年譜で計算すると15,6年間この庵で暮らしていた。この庵より下の乙
子庵にいた時期も含め69歳までの26年間もこの国上山ですごしていたこと
になる。

 水上勉は「良寛」発刊の年か翌年かに良寛ゆかりの地を歩きルポルタージュ
を残している。それが1996年に日本放送出版協会から刊行されている。私
は1996年刊行の「新編水上勉全集」第十一巻で読んだ。

 著者が最初に訪れた群馬県新田町の木崎というところに、薄幸な飯盛り女
たちの墓があった。飯盛り女は旅籠につとめて人足や旅人相手に体を売る娘
たちで、越後から「人買い」を仲介にしてきた農村出身者だった。

 その墓石に刻まれた出身地、没年月日、行年などから、良寛が手毬で遊ん
だりした子供たちの中に、この娘たちもいたのではないか、手毬遊びはしなか
ったにせよ、村道ですれ違うぐらいはしていたかもしれないと著者は想像する。
そして、「とすると、良寛和尚の生涯の足元には、娘たちを売る村があり、その
村々は喰うや喰わずの、どん底を這い回っていた、とわかる。良寛さまは、た
くさんの詩歌を残されたけれど、娘を売らぬと食ってゆけぬ家のことを読まれ
た歌や詩は少ないのだった。ご存じなかったか、といえばそうでもなかろう。
(略)(良寛の長歌を引用して)ひょっとしたらこの長歌のうらで、和尚は、かな
しい家の事情を百もご存じだったもしれない」という推測している。

 著者が備中・玉島の円通寺を訪れたとき、その近くにあった寺で、円通寺か
ら移されたといわれる差別戒名の彫られた墓石を見た。昔、曹洞宗は、藩政
時代の四民制に準じた檀信徒の差別性が説かれて、戒名も草男草女とか、
畜男畜女といった漢字を感じを使うよう各寺院に指令していたといわれてい
たようだ。

 この話も初めて聞く話で、私の家も曹洞宗だが、この宗派がそういう過去を
もっていたとは。著者は「このような差別墓は、当時のどこにあってもめずらし
くはなかったのが事実なのだが、それと良寛和尚の寺を嫌う理由とを結びつ
けてみた人はいない。不思議なことのように思う」と書いている。

 そのほか水上勉は五合庵、分水町、乙子庵、和島村、隆泉寺などを訪問し
ている。和島村には良寛が晩年を過ごした木村家があり、この木村家で、臨
終のとき良寛は禅宗僧侶らしい坐亡だったと伝えられているという。良寛の
遺品、遺墨などが見られると書いている。いつか行ってみたいものだ。

水上勉の「蓑笠の人」、「良寛」を読む(4)

★菅江真澄のこと

 「良寛」のなかに、菅江真澄の名前を見つけのは意外だった。といっても菅
江真澄に関しては名前くらいしか知らないのだが。

 真澄は「くめじのはし」に、天明四年(1784年)七月一日に国仙和尚と出会
ったと書いている。真澄の叔父と国仙和尚が知り合いだったことで二人は顔
見知りだった。そのとき和尚は信州と越後の旅行途中だった。その和尚に同
行していた僧がいて、真澄が「まどゐしたる僧もほゝえみたり」と書いたその僧
が良寛だと、著者は書いている。

 ウィキペディアと良寛年譜などをみると、真澄は宝暦四年に三河(現在の豊
橋市)に生まれた。良寛は宝暦八年(1758)生まれだから真澄が四歳年長
という年代の近さだ。真澄は天明三年(1783年)に故郷を出発した。国仙和
尚と出会ったのはその翌年だから、故郷を出た翌年のことになる。その一年
間どこかでなにかをしていて(それは当り前だ。スミマシェン)、信州か越後の
あたりで和尚と出会った。きっと信州、東北方面へ向かう旅の途中だったので
はないか。

 もう一か所真澄の名前が出てくる。文政五年(1822年)五月八日、真澄は
旅先の「久保田なる長野坊小野寺の館」というところに良寛の弟由之の来訪
を受けている。真澄の「高志のものかたり」のなかに「国上山の手毬上人良
寛の舎弟なるよし。国上の良寛(テマリホフシ)の・・・」と書いている。
 

 これについて菅江真澄研究会発行の「菅江真澄のことども」(1992年7月
刊)に松本三喜夫という人が書いたものを読むと、久保田は秋田のこと。弟
由之は文政4年(1821年)に出雲崎を出発、酒田で一年近く滞在した後、翌
文政5年に秋田に到着して、真澄のいる小野寺の館で会い、良寛のことが話
題に上ったということだろう。

 秋田で良寛の弟と菅江真澄が会ったというのは、間接的とはいえ秋田と良
寛との縁といえばいえそうだ。

 いずれにせよ、そんな風に一冊の本に書かれた事柄(主な主題であること
もあれば、単なる挿話であることもあろうが、そこ)から派生的に興味が生ま
れるのも読書の楽しみの一つで、予想外の付録をもらったような気分だ。

水上勉の「蓑笠の人」、「良寛」を読む(3)

 それにしても著者は「蓑笠の人」では、例えば良寛が「老いさらばえての 侘
び住まい 真冬となれば 猶のこと つらしとも くるしとも 粥をすすって 寒
夜をしのぎ(略)芋なし野菜なし(略)君あわれめよこの詩みて」と歌ったことに
「良寛の甘えを感じて久しい」ときびしめに書いている。

 また、晴れた日は言うに及ばず雨の日も物乞いをしていたようだが、いささか
の労働を提供してその代償としてもらうのではなかった。彼は贈ってくれた人
に対して語録も説かねば説教もしなかった、経も読まなかった、葬式や法事を
つとめたという話はどの記録にもない・・・と書いて、地域の人たちから物をいた
だくことが当然のごとくに受け取っている様子であるのが不可解で、どんな了
見なのか、無神経でないかといわんばかりに書いている。

 そのようにきびしく「蓑笠の人」に書いた人が、「良寛」では一転して良寛の身
に気持ちに添うような、好意的な目線でその生涯を追っている。これは何なの
か、「蓑笠の人」の後の数年間に何があったのか。その落差に戸惑いを感じる。

 まあ、そんな具合ではあるけれど、「良寛」に描かれた良寛像には、親しみ
やすさを覚えている。まだ栄蔵という名であった幼年時代、自分を叱った父親
を上目づかいで見たときに、上目づかいをする子供はやがて鰈になるぞと父
親から言われた。すると栄蔵は海辺に出て日暮れまで岩に立って鰈になるか
試していたという。鰈というのを親は例えで言ったのだが、それをそのまま信
じた子供らしさは微笑ましく、その純真さは成長してからもなくなることはなか
ったようだ。

 出雲崎で名主見習いの時、漁民騒動に巻き込まれた。代官と漁民の双方の
言い分をそのまま相手に告げたため収拾がつかなくなった。円通寺時代、乞
食のような姿で子供らと遊んでいたとき、どこかの盗難事件を追っていた役
人から怪しまれたところ、良寛は弁解せずにつかまってしまった。自分にも疑
われるようなところがあったのだろうから自然に任せようと思ったという。

 ある日円通寺の山麓で農家の壁にもたれて立ったまま居眠りをしてしまった。
不審に思った役人につかまったが、このときも弁解しなかったという逸話もあ
るという。また、「修行成績はよくなくて、あるいは仲間には愚鈍に見えたろう」
と水上は書いている。

 良寛の書いた書が評判になって、これをほしがった近所の農民たちが唐紙
を持ってきて一筆書いてほしいとせがまれたとき、最初は曖昧にしていたが、
結局は負けて求めに応じてしまうのだという。

 そんな按配で、純真で鈍でトロイ性格だから、機転を利かせたり、自身のた
めにはかりごとをすることもなかったようだ。こうした人柄ゆえに皆に慕われて
もいたのだろう。

 山の庵で孤独で清貧の生活をし、晴れれば托鉢に歩き、子供たちと遊び、漢
詩や短歌の修養に努めた。その漢詩には、荘子や般若心経などの影響がある
という。私には理解の及ばないそうした文芸や思想や宗教的境地を円熟させて
いったのだろう。そのあたりは私にはおぼろげにしか見えないが魅力ではある。

 この本の中で、良寛の漢詩訳や解説がされている。そこには良寛自身の禅
者としての生きる意志やそのときどきの境地や、心境がうたわれている。また
短歌には自然や自分を援助してくれる人々との心の交流がうたわれている。
そうした詩歌にも惹かれるものを感じ、またページを開きたくなるような気がし
ている。





 
 

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