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2014年12月21日 - 2014年12月27日

2014年12月27日 (土)

画廊で詩画展をやった人たちのこと

 2か月ほど前、千秋美術館で佐竹義敦公などの秋田蘭画やそれ以降の県 
人の絵画展を見に行ったことがあった。

 ホールに置かれた目録とか小物類の中に本が一冊立てかけられていて、
その本のページをめくっているうち、吉田朗さんとか押切順三さんの名前があ
った。これは驚きだった。美術館で、秋田の戦後の詩の時代を刻んだ人たち
の名前を発見するとはどういうことか。ただ、ホールで本を読みふけるわけに
もゆかず、その内容を知る機会は後日に回すことにしたのだった。

 最近、ようやく市内の図書館にこの本が貸し出されていたので読んでみた。
題名は「ここは秋田“モンパルナス通り”-「響画廊」の30年-」となっていて、
画廊の主である徳永純二さん・みどりさん夫妻が編集した。

 響画廊は、秋田市内中小路のさかいだ陶器店から中央通りに抜ける小路
にあって、画廊主の徳永純二さんは福岡県出身、私より十歳ほど若い。夫人
のみどりさんは実家が秋田市内にあるという。画廊は昭和59年(1984年)
に開かれた。そこはもちろん画家や彫刻家など芸術分野の人たちの作品発
表の場であったが、吉田さんたち詩人も詩画展を開くなど表現の場の一つで
あり、交遊の場でもあった、ということだった。

 読むと、パリのモンパルナス通りに模して名づけたのはどうやら小坂太郎さ
んのようだ。その小坂さんがこう書いている。「時の流れの中に、杭のように直
立する、自由闊達な詩人たちにとっての梁山泊であった。その小さな城(画廊)
は売れない詩人たちにとってのとてつもない夢をふ化させてくれる、秋田では
唯一の実験場でもあった」。

 続けて「私たちが試みたのは『詩画展』の開催である。『読む詩』から『視る
詩』へ。言葉で書かれる詩が詩画という表現形式の媒介によって、会場芸術
(展示・陳列)の作品になりうるものだろうか」。あの人たちは、詩と美術のそう
いう世界を結んでいたのかと、知った。

 では、その昔、まだ二十代の青々しい男女数人が、千秋公園二の丸の四阿
に、手書きで紙に書いた詩を貼りだして野外詩展を開いたことがあった。あれ
は何だったろうか。作品の中に絵こそなかったものの、小坂太郎さんが「会場
芸術(展示・陳列)の作品たりうるか」と意味づけを試みた行動を、あの若者た
ちは、公園の風の中で、見知らぬ人たちの眼差しの前に、自分たちの言葉を
さらすという、極めて直接的で純朴でシンプルな表現で行いえたということかも
しれない。響画廊で大人の詩人たちが詩画展を催したのは、あの若者たちが
野外詩展を行ってから、多分十年ほど後のことだったろう。ということは、あの
無名の若者たちの野外詩展は、ひょっとしたら、大人の詩人たちの脳裏に何
かをもたらしたのではないか? といっても、それでどうした、ということになる
と、どうということもない。そんなこともあったという思い出話にしかならないの
だが。

 この本には、徳永さん夫妻自身の記録や折々の心境のほか、画廊の企画
展に寄せた著名人たちの案内状に使ったと思われる文も載っている。吉田さ
んや押切さん、小坂さんのほかに私の知った人の名前も散見できる。北本哲
三さん、中川利三郎さん、藤田励治さん、品川清美さん、小番績さん、沢木隆
子さん、畠山義郎さん、磐城葦彦さんなどで、美術関係でも紺野五郎、横山津
恵、皆川嘉左ヱ門、皆川嘉博、星野道夫といった名前をみつけることができた。

 
 私が昔、詩を書いていた縁で知りえた名前の、また相貌の多くは既に他界し
ている。この本で名前を見た時は、何か夢の一幕でも見ているようだった。彼
らが表現の場を求めた画廊はいまも健在のようだ。今、秋田で詩を書く人たち
はあの画廊に出入りしたりするのだろうか。そんなことも、今の自分にはどうで
もよいことだけれど。

2014年12月25日 (木)

畠山義郎さんの「松に聞け」を読んだ

 畠山義郎さんが合川町長の職を退いたのは1995年(平成7年)で、その3
年後にこの本が刊行された。

 冒頭に「人生でたったひとつだけ自分のやってきたことを挙げよ、と問われ
れば・・・躊躇なく、木を植えてきた、と答えるだろう」と書いている。

 昭和30年、近隣町村が合併した際にそれぞれが持ち寄った基本財産の合
計は178ヘクタールの山林だった。それが畠山さんが退職した平成7年には
1,140ヘクタールに達した。40年間で植えた木は主にスギで、ざっと342
万本を数えるという。その間の複雑に入り組んで設定された入会権の整理や
農業の労働形態の変化、山林で働く地元民の待遇、出稼ぎの急増・・そうした
状況は簾内敬司の「北緯四十度の・・・」でも説明されているし、この本でもふ
れられている。

 畠山さんは住民が出稼ぎにも行かずに従事している山林労働の、その厳し
さを十分に知っているだけに、彼らを「ふるさとの生ける神々」と呼んだ。こう
した木と、「気の遠くなるような」植林作業に寄せる思いが、日本海沿岸に南
北に続いている海岸砂防林(山林と同様に、気の遠くなるような植林であった
ろうことに著者自身共感を抱いたと思われる)へも向けられ、青森・十三湖や、
能代、秋田市雄物川河口周辺での松の植林の歴史への旅に赴かせたのだ
ろう。

 海岸砂防林がつくられるにいたるまでには、沿岸に暮らす人々が砂とたた
かいがあり、ここに書かれた歴史は私の初めて知るものだった。たとえば、米
代川の場合などで、上流地域で鉄の製造工程に必要な火力の源として森林
の樹木が消費され、それが山地の土砂を流出させ、上流に運ばれた砂が長
い年月を経て河口に海岸砂丘を作るようになった。

 自然作用でつくられた海岸砂丘からの飛砂が、沿岸にすむ人々の暮らしを
長い間苦しめた。また、新田開発の波が沿岸地域にも拡大しようというときに
も砂の害は障害だった。そこに海岸砂防林の必要性があった。人々の手で長
年月をかけて作られた松林も、冬の暖房の熱源として使わざるを得ず、大半
をそのために消失したこともあったようだ。

 子供のころまで私は海辺の小村で暮らしていたが、海岸砂防林の付近にグ
ミの木があって、実を食べると酸っぱい味がしたのを覚えている。この本によ
ると、松の苗を植えてもすぐに砂や風で死んでしまうが、事前にグミや柳を植
えておき、数年後に成長したそれらを風よけにして、陰に松の苗を植えると松
が育つのだそうだ。これは栗田定之丞が行ったことだという。私が見たグミは
その名残だったということになる。

 本はその後、酒田市や由利本荘市の松の植林の歴史をめぐることになる。
畠山さんは、白神山地が手つかずのブナの自然というなら、日本海沿岸に連
なる松の林の総延長はギネスブックもので、世界的な植林の歴史を表すもの
ではないかと書いている。

 なるほどそんなふうにも思える。この本のための執筆は、畠山さんが町長職
を退いてから3年後にこの本が出たことを思うと、退職後すぐにもとりかかっ
たのではないか。そんなことも照らし合わせると、書かずにいられないという意
欲が感じられる本だった。

2014年12月24日 (水)

「日本北緯四十度 戦後精神のかたち」を読んだ

 簾内敬司が秋田県の元合川町長畠山義郎さん(故人)の人間像や業績を、
その時代背景を掘り下げながら明らかにしていく。1995年10月日本経済評
論社刊。

 著者はインタビューとルポを交錯させながら書き進めている。畠山さんは合
併前の下大野村長1期に続き合川町長を10期務めあげたが、他の自治体
がまだやっていない先駆的な施策を次々と事業化してきたことを、この本を
読んで初めて知った。不可能を可能とする挑戦心と抜群のそして一気呵成
の行動力・・・。

 インタビューで畠山さんが言っている。「金持ちや満ち足りた者、つまり社会
的立場の強い者から学ぶことは何もない。逆に弱い者から学ぶことはたくさ
んある。弱者は毎日、一日もなおざりに出来ないほどの日々の悩みを抱えて
生きているわけだから学ぶことは深いし、すそ野は広い。福祉というのは弱い
立場の者から学ぶということと同義だ」・・・は心に残る。

 
 また、簾内自身の次のような言葉も。「人は地上の尺度で自分に拘泥するこ
ともできるが、ほんの少しだけ離れて見れば、宇宙の尺度で自分を見つめな
おすこともできる。そしていつも、人を謙虚にするのは宇宙の尺度である」

 著者の時代を見る目とか事象の本質に迫ろうとする言葉に力を感じる。彼
は藤里で白神山地案内人をしている市川善吉さんという人の聞き書きも本に
している。これも面白かった。

 聞き書きは、県北の野添憲治さんが出稼ぎ者や林業従事者に行った手法
と同様だ。この方法は、問いかけの仕方が、どのような答えを引き出すかを
決めるので、インタビュアーの問題意識や共感の在り方が問われるのだろう
と思う。

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