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2014年2月9日 - 2014年2月15日

2014年2月15日 (土)

森鴎外の「舞姫」を読む

 新潮社「日本文学全集第3巻森鴎外」から

 《主人公太田豊太郎は、ドイツ・ベルリンの町である娘と知り合い、その後娘が
母親と暮らすアパートに同居するようになった。娘は劇団所属の踊り子で報酬
は座頭に大半を吸い取られ、残ったわずかな収入で貧しい暮らしを送っていた。

 彼は、ドイツ国内の政治、文化などの状況を日本に向けて通信するのが仕事
で、わずかな給料を三人の暮らしに入れて細々と暮らしていた。彼の仕事は日
本にいる友人相沢謙吉が便宜を図ってくれたものだった。その相沢が大臣に随
行してベルリンを訪れた。その際に主人公は大臣とも面会し、通訳の仕事をする
ことになった。さらに大臣についてロシアに同行したりもした。彼は大臣から信頼
されるようになり、日本に帰国し実力を発揮するよう勧められ、これを承諾してし
まった。

 実はこのとき、踊り子は主人公の子を妊娠していたのだった。踊り子は彼の子
を産み、一緒に暮らすことを夢見ていた。主人公は踊り子のことを思い、帰国を
承諾したことを思うにつけて悩み、自分の罪深さにさいなまれ、街を彷徨し、酷
寒の中で気を失ってしまう。看病に来た友人相沢は、主人公が帰国することを
踊り子に告げてしまう。それを聞いた踊り子は自分を欺いたのかと狂ったように
なる。

 主人公は友人とともに、もう治る見込みのない踊り子と母親に、今後の生計の
助けになればとお金を与え、子が生まれた折のことも頼んで帰国したのだった。
主人公は相沢のような友人は他にいないと思うが、脳裏に一点、彼を憎む心が
今日まで残っていると述べる。》

 以上がごく簡単なあらすじだ。海外で三年間貧しく暮らしている中で、母国での
有意義な仕事ができるとすすめられた主人公には、母もいる日本へ帰りたい気
持ちの一方で、踊り子にわが子を孕ませているという事態にいまさらながらの困
惑が生じていたろう。娘に何の話もなく帰国の話を承諾してしまったことで、娘を
欺いてしまった強い後悔、自責に駆られた様子が描かれていて、短編ながら重
しのついたよい小説だった。

 ベルリンに残るか帰国するか人生上の岐路にあって、主人公の優柔不断さが
透けて見えた。主人公は、踊り子やその母親に帰国したい気持ちを述べて相談
すべきだった。しかし、そうする間もなく事態がトントン拍子で展開してゆき、そ
れについてゆけなかったのだろう。

 主人公は母娘と十分に時間をかけて話し合いたいと、大臣または友人に求め、
また、友人相沢も親友として大事と思うくらいなら、親友の思いを大臣にとりなす
ことができなかっただろうか。そして、しばらくはドイツでの暮らしを続けながら、
やがては生まれる子供も一緒に帰国の機会を待つということを考えてもよかっ
た。若さゆえの性急さや望郷の念に駆られて焦ったのだろう。

 それなら、いったん帰国した後に娘と子を日本に呼ぶという選択肢もあったは
ずで、主人公はその点について友人に意見を求めることもできた。友人も、その
線に沿って助言するとか・・・などと思いを巡らせていた。

 この小説は鴎外28歳の時、明治23年に発表した作品で、文語調であり難語
もあった。本文と注解を往復をしつつ読んだが、それでも言い回しのわからない
部分はあったが、前後の脈絡から当て推量で読んだ。

 年譜によると、鴎外は島根県出身で四歳で四書五経を、五歳で漢学を、八歳
で蘭学を、十歳でドイツ語を学んだとある。十二歳で東京医学校予科に入学し
たが、規定に合わせるため二歳早く生まれたとごまかしている。なんという教育、
頭脳、早熟、才能であったことかと驚くが、昔はそのようなことは稀にせよあった
のかもしれない。明治二十二年23歳の時に衛生学等を学ぶためドイツに留学
した。この時の経験からこの小説が生まれたのだろう。

2014年2月11日 (火)

乙川優三郎の「脊梁山脈」を読む

 昨年末の新聞の書評欄で、年内に刊行され、印象に残った本を作家や評論
家たちが紹介していた。その中にこの本があった。小説の中に「小椋」という名
のこけし職人が出てくると書かれていて、旧雄勝郡皆瀬村木地山でこけしを作
っていた小椋久太郎さん(故人)を連想した。

  赤坂憲雄の「東北学/忘れられた東北」のなかに、皆瀬の小椋一族の先祖は
近江小椋庄を原籍地としてもち、飛騨、会津、鳴子、鬼首を経て皆瀬村に至る
まで足跡をたどることができると述べられていた。そんなこともあって読んでみ
る気になった。

 時代は戦後の昭和21年から15年間の設定。上海から復員した矢田部信幸
が福島に帰京するときに世話になった小椋康造を探し続ける。小椋が木地師
であるとの推測のもと、木地師の発生地とみられる近江や東北の温泉地を訪
ね歩く。「東北学/忘れられた東北」が紹介した土地をたどるような感じだ。主
人公は調べていくうちに、木地師の起源は古く、古代にまでさかのぼることな
どがわかってくる。

 その時代、朝鮮半島から渡来し、帰化した人たちの中から木工職人が生まれ、
集団で近江地方の山で木地師として生業を営み、やがて木を求め山を求めて
転々と移り暮らすようになる。この木地師の歴史のなかから浮かび上がってき
たような人物として木地師の末裔「多希子」が描かれている。

 主人公は、木地師の原初を求めるうちに、朝鮮半島から渡来してきた人々が、
古代日本の天皇やそれに近い立場の人間の中にいること、彼らが多方面で
能力を発揮していたことを知り、木地師もまたその技工集団の一つだったと推
測する。

 今は戦後から七十年近くにもなり、戦後という言葉すら古めいてきている。一
方、主人公の生きる時代は戦後からまだ十五年間くらいしか経っていない時
期のことで、なおかつ古代に思いをはせるわけだが、今、この小説が書かれた
意味合いはどこにあるのだろう。多分、木地師の歴史をさかのぼると、半島か
らの帰化人に突き当たり、彼らが古代以降日本国内に広く散らばり、流浪し、
現代もかなりの日本人にその血が流れているはずだが、にもかかわらず、日
本人の中に半島の人に対する理由のない偏見や差別観があるということ、そ
のことをわれわれは見なければならないということ、そこにあるのではないかと
思われる。

 
 朝鮮半島からの帰化人について・・・古代においては、「近代日本の為政者
が作り出した民族的な偏見はなく、帰化人もまた日本人として堂々と生きてい
たようなのである。ひとつには国家が未熟なせいで、あらゆる分野で彼らの力
を必要としていたからだろう。(略)政治や軍事に関わり、先進の文化を導き、
国史を編纂し、外交に働き、優れた土木技術によって開拓と殖産を進めた。そ
の中には純粋な日本人と思われている人物も少なくない。」

 さらに・・・「彼らは着実に根を張り、日本人となって、あるときは外交に働き、
あるときは母国と戦ったのである。坂上田村麻呂も幕末を賑わせた薩摩の島
津家も帰化人の後裔だが、もはや日本人といった方がふさわしい。平安初期
の氏族に限ればその三割近くが帰化系という数字が出るし、人口全体では
どこまで膨らんでいたか知れない。当然、その血は歳月とともに広がり、我々
を生んだのである。すると日本人が自負する勤勉さや器用さも帰化人の血か
もしれず、どちらがどちらに同化したかわからないことになりはしまいか。」

 ・・・と書いている。そして、二度ほど出てくる「日鮮同祖」という言葉は著者の
思いを表す言葉だと思われる。

 また、「江戸時代の帰化人に対する差別観は、明治以降の国粋主義によっ
て朝鮮人への差別に変わり、関わりのない被差別部落の人々をも一層苦しめ
ることとなった。」と書いている。

 このあたりにくると私は、大正時代の関東大震災の際に、日本人が多くの朝
鮮人を流言飛語によって虐殺したという暗い歴史につなげて読んでいる。そ
れは秋田県内で起こった花岡事件にしても、韓国人の慰安婦問題にしても同
じ脈絡で受け止められると思う。日本人の歴史の恥ずかしい部分だと思う。

 この小説の読ませどころは、宮城・山形県境(地図で確かめると尾花沢市銀
山温泉の東に当たる)の荒れた山中に木地師の足跡を探していたとき、ふと
見ると、自分の腰かけていた石が実は墓石で、しかも表面には菊花紋章が刻
まれていたことを発見した、という部分だろう。木地師の先祖が天皇家にあっ
たということを指すが、ありえない話ではないことを墓石の紋章という具体物に
よって示したといえる。


 

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